こころの電話

最近の記事

2月16日~心が落ち着くな~、懐かしいな~

 お寺の庭にも、萌野さながらに、さまざまな草の芽が顔をのぞかせてきました。

 さて、昨年の暮れ、離郷門徒のUさんが帰省され、お寺にお参りに来てくださいました。

 本堂の仏前でお参りをされた後、一言、「あ~心が落ち着きますね。昔本堂の裏の押し入れにお仕置きで入れられるのが怖かったな~、でも懐かしい思い出です」とおっしゃいました。

 戦後、子どもが多かった時代、お寺で地域福祉の一環として子どもたちを預かり、それが後にお寺で運営する保育園として発展してきました。

 先生の言うことをなかなか聞かない子や友達に悪さをする子など、俗に言うきかん坊は、お寺の裏の薄暗い押し入れにお仕置きで入れられるのが常で、昭和三十年代までは、それがアタリマエのようにされていました。

 私自身もお寺に生まれた子ではありますが、ご多分に漏れず何回か入れられた思い出があります。

 当然、今の時代は許されませんし、虐待と言われる行為です。

 しかし、押し入れに入れられて叱られてそれで終わりではありませんでした。泣き顔で目が腫れた子どもに寄り添って、やさしくていねいにお話をしてくださる先生の姿がありました。

 きっと先生も、子どもが思うように言うことを聞いてくれない、先生としての技術不足に忸怩たる思いで、仏さまに頭をもたげながら、そうせざるを得なかったのかもしれません。

 お寺は、仏さまの教えを聞く聴聞の場です。仏さまの御心にふれる場です。そして、ご門徒方が愚痴も言えて、慰め合って、笑い合って、励まし合う場です。また心が安らぐ場でもあります。

 Uさんのように、「懐かしいな~、心が落ち着くな~」とおっしゃるご門徒が一人でも増えるように努めたいと思います。

2月16日~心が落ち着くな~、懐かしいな~2024年02月18日【446】

2月1日~驚きあわてねばならないときは…

 新たな年が明けてはや一月が経ちました。

 一月が早く過ぎてしまうことをよく、「一月は一気に…」と言われますが、能登半島地震によって被災された方々は、「あの時から時が止まったままだ」とテレビでおっしゃっていました。厳しい現実のただ中で過ごしておられることに、胸が痛みます。

 浄土真宗で敬う七人の高僧のお一人、中国の善導大師の書物に『往生礼讃』があります。

お念仏をいただく行者に、一日に六回、四時間おきに阿弥陀仏を讃える文を称えて礼拝することを勧められたもので、本願寺の歴史においても、蓮如上人が正信偈を制定されるまでは、毎日のお勤めはこの礼讃でした。

 その中に無常偈といわれる大変有名な偈文があります。

 人間は、毎日忙しい忙しいとあわただしく目の前の仕事や生活に追われて、あっという間に月日が過ぎ去っていくことに気がついていない。

 自らの命が風の中にあるローソクの火のように、いつ消えるかわからないのに、せわしく落ち着くこともなく、無常の中でうろうろと漂いながら日暮らしをしている。

 そのような状態にありながら、頼りとならぬものを頼りとし、あてにならぬものをひたすら求めて日々を過ごし、苦しみの世界から抜け出すことができずにいるのに、どうして安穏として落ち着いておれるのであろうか。驚きあわてねばならないときはとっくに来ている。

 皆一人ひとり、よく聞くがよい。自分で聞き、学び、行動できるうちに、一日も早くさとりの道、お浄土への道を問いたずねなさい。大切なのは今、今、今ですよ。

 無常という厳しい現実を知らされた一月でした。被災地への支援をさせていただきつつ、無常偈のお言葉を深く味わいたいと思います。

2月1日~驚きあわてねばならないときは…2024年02月02日【445】

1月16日~被災地にこころをよせて…

 新しい年が明けて半月が過ぎました。

 今年の年明けは能登半島地震、また羽田空港での日航機と海上保安庁の飛行機が接触炎上という大きな震災と事故で始まりました。

 地震によって被災された皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。

 テレビの報道で、被災された方が、「今はただ、頑張るしかない」と、肩を落としておっしゃっていましたが、「しかない」という表現は、それ以外に方法がない、仕方がないからそうするしかないと、あきらめの時によく使う言葉ですが、被災されて何もかも失われた方が厳しい寒さの中でおっしゃった、「頑張るしかない」との言葉に、心が締め付けられる思いでありました。

 新年のテレホン法話でお釈迦さまが諭されたこの世の道理をお話ししました。

 縁起といって、私のいのちは、多くのいのちによって支えられ、生かされ、お互いにつながっているのですよという教えです。被災地に心をよせて、大きな事はできませんが、少しでも復興の支援のために努めたいと思います。

 無常といって、すべてのものは常に移り変わり、老、病、死をかかえた私自身も、いついかなる時にどうなるか、はかることはできませんよという教えです。震災も事故も、遠い地での話ではありません。その無常の中で私たちは一瞬一瞬を過ごしていることを心したいと思います。

 無我といって、伴侶や家族、財産など、常々頼りにしているものが本当は頼りにならない存在ですよという教えです。限りあるいのち持つ私たちにとって、現在も、未来も、本当に頼りとなるものは何なのかを求める日暮らしをしたいものです。

 親鸞聖人は、「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とおっしゃいました。

このお言葉に、どのような意味があるのかを聞き訪ねていきたいと思います。

 共々に、被災地に心をよせて、できるところから支援のお手伝いをさせていただきましょう。

1月16日~被災地にこころをよせて…2024年01月21日【444】

[1]    «    5  |  6  |  7  |  8  |  9    »    [154]

- 管理用 -

最近の記事

月別記事