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6月16日~父の日の「お陰さまのお膳」
毎日、日本のどこかで線状降水帯発生の予報が伝えられます。ともどもに気をつけましょう。
さて、六月十六日は父の日で、有り難いことに、私も子どもたちから感謝の言葉をいただきましたが、ラジオでもそれに関連する放送があり、その中で、すでにお父様がお亡くなりになったご家庭からのお便りがありました。
またその中、いくつかのご家庭では、お父様が生前好きだった食べ物を食卓に用意して、一緒に食べてお父様を偲んだということでした。
その放送を聞いて、古来日本には陰膳という風習があったことを思い出しました。
陰膳とは、一つには、遠くで離れて暮らす家族や知人の無事を願ってその人の食事を作るという意味があり、二つには、亡くなった方が四十九日間旅をするときに、食事に困らないように、また安らかな旅ができるようにと、食事を供えるという意味があるそうです。
ただ浄土真宗では、即得往生といい、亡くなった方は阿弥陀如来の本願力によって、迷うことなく速やかにお浄土に往き生まれると説かれますので、亡くなった方の心配をする必要はありませんし、亡くなった方の食事を作る必要もありません。
一方で、仏教は縁起の道理を説く教えです。縁起の道理とは、私という存在は多くの因縁によって育てられ生かされているということに目覚めるということで、言い換えれば私のいのちには両親をはじめ、数えることができないほどの多くのいのちが通い、ただ今の私が存在し生かされているということに目覚めることであります。
陰膳の本来の意味は尊重されるべきですが、生前、お父様がお好きだった食事を用意して、ご縁をいただいたこと、お育ていただいたことに感謝して、懐かしい思い出とともにおいしくお食事をいただくならば、それこそ「お陰さまのお膳」・陰膳ではないかと、ラジオの放送を聞いて思うことでした。
6月16日~父の日の「お陰さまのお膳」 | 2024年06月18日【454】
6月1日~一人ひとりの病状に応じて
太陽の日差しが一段と眩しい季節になりました。
さて、今から約二五〇〇年前に、お釈迦様によって仏教は開かれました。そのお釈迦様のお説法の特徴は、「応病与薬」と言われ、一人ひとりの悩み苦しみに応じて、薬を与えるように教えを説かれたということです。
現代において、薬は、医師の診察の下で出される「処方薬」と薬局で薬剤師に相談して選ぶ「市販薬」を合わせると、約二万五〇〇〇品目におよぶと言われます。それに伴って、私たちは容易に薬が手に入るようになりました。そして今では、不治の病とも言われていた癌でさえも、治る可能性が生まれています。一人ひとりの病状に応じて、有難いことに多くの薬が完成しています。
それと同じように、お釈迦様は、私たち一人ひとりの悩み苦しみに応じて、救いの教えをお説きになったのです。
この世で生きる私たち人間の悩みや苦しみは、子育てや経済的な問題、人間関係やお仕事など様々です。まして、老病死から逃れることのできない私たちは、その恐れや悩みから逃れることはできません。
顧みれば、この世に生を受けた瞬間から、老病死をかかえた私たち人間の悩みは、お釈迦様がいらした二五〇〇年前と、何も変わりはありません。
さらに、感染症拡大に悩まされ、世界の各地で紛争は起こり、さらに将来の地球環境までもが心配され、人々の悩み苦しみは深まるばかりです。
どのように時代が変わっても、私たち人間は、悩みや苦しみと向き合わねばなりません。しかし、お釈迦様は、遠い昔より、その人間の持つ苦悩の原因を見通して、私たち一人ひとりが悟りの道へと歩む教えを示してくださいました。
私の苦しみが深いゆえに、仏の慈悲に限りがない。
私の迷いが深いゆえに仏の智慧に限りがない。
そのおいわれを、正しく聞いてまいりましょう。
6月1日~一人ひとりの病状に応じて | 2024年06月01日【453】
5月16日~お別れするその時に…
空豆が美味しい季節となりました。
さて、この度、長年乗ってきた自家用車を乗り換えました。
新車が来る前日に、これまで乗ってきた車の前に、阿弥陀如来のご本尊を安置してお勤めをしました。
思い返せばこの数年間、近隣遠方、お仕事でどこに行くにも、私を目的地まで安全に運んでくれました。
大雨の日も、台風の日も、炎天下の暑い日も、凍り付くような寒い日も、エアコンのきく快適な空間の中で、私を目的地まで運んでくれました。
さらに、初めて行くところにはナビゲーションで案内を、また快適な音楽を奏でながら運んでくれました。
多くの人は、新車を迎えたときに、事故が起きないように安全にと、神仏にお願いをされることが多いようです。その気持ちはわからないでもないのですが、私はこれまで乗ってきた車とお別れをするときの方を大切にしています。
なぜなら、私が車を運転して生活する以上、絶対に事故なく安全に過ごすことは不可能ですし、神仏にそれをおまかせするのは無茶な話です。
しかし、ご縁があって、自動車が私のところに来て、お仕事でもレジャーでも、お別れするその日まで安全に、快適に、過ごさせてくれたのはその車のお陰です。
この度も約十万キロ走行しましたが、足下を支えてくれたタイヤはどれほど回転したでしょうか、その身をすり減らしたでしょうか。お別れする車が、私と家族のために、精いっぱい務めてくれたのは間違いのない事実だからです。なんと有り難いことでありましょうか。手を合わさずにはおれません。
仏教は、縁起の法を説く教えであります。すべての物事には、原因があって、縁がはたらいて存在しています。そのことを深く味わっていくところに、こころ豊かな人生が開かれます。
お別れと同時に、新しく運ばれてきた車にも、「またこれからよろしく」とご挨拶をしました。
5月16日~お別れするその時に… | 2024年06月01日【452】