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4月1日~今はただ、遺徳を偲びつつ…

 桜が美しい季節です。

 明日ありと思うこころの徒桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

 親鸞聖人が、九歳の春、出家・得度をされるときに詠まれたと伝わる歌で、明日はどうなるかわからない命のはかなさを桜の花に喩えたものです。

 会者定離 かねてありとは聞きしかど 昨日今日とは 思わざりけり

 親鸞聖人が、流罪によってお師匠である法然上人と別れなければならない悲しさ、離れがたい思いをお詠みになった歌ですが、この歌も離別は無常であることを伝えるためによく紹介されます。

 この度、覺照寺の前住職が享年九十八歳にて往生の素懐を遂げました。

 高齢の身で、歩行は少しおぼつかない状況もありましたが、食事を作ること以外、日常のことはすべて自分で行うほど元気でありましたが、突然のお別れとなりました。

 先月三月二十日、二十一日のお彼岸法要には、お袈裟を付けてお寺の内陣に出勤し、参拝のご門徒方にお礼を述べ、「今月三十日、あと十日もすれば私も九十七歳を迎えます」と申しておりましたが、それも叶いませんでした。

 高齢ですので、その時はいつきてもよいと覚悟はしていたかもしれませんが、きっとこのように突然にとは思わなかったことでありましょう。

 私たち家族もまさかこんなに早く突然にとは夢にも思わず、命のはかなさを痛感することであります。

 散っていく桜の花びらは周囲の人々だけでなく、散っていく一枚一枚の中に、私の命も、私の親しい人の命もあるということがなかなかわからない。そして、そのことを常にこころに保ち続けることが難しいところに、人間の愚かさ、悲しさがあるのでありましょう。

 今はただ、前住職の遺徳を偲びつつ、お念仏申させていただきます。

4月1日~今はただ、遺徳を偲びつつ…2025年04月01日【472】

3月16日~法蔵菩薩様の真似をして

 春に吹く冷たい北風は春北風、別名「はるならい」ともいいます。

 さて先日、鹿児島市の鹿児島別院で、篤信のご門徒Cさんとお会いしたとき、Cさんからニコニコと笑顔で、「いつもテレホン法話を聞いていますよ」と声をかけて頂きました。

 Cさんは軽いごあいさつでおっしゃったのでしょうが、私は何やら少し気恥ずかしく、またうれしく、励まされた気持ちにもなりました。

 仏教に「和顔愛語」という有名な言葉があります。「和顔」はやわらかな顔で人と接し、「愛語」はやさしい言葉で接することで、これは『仏説無量寿経』に出てくる言葉です。

 法蔵菩薩が阿弥陀如来という仏さまになるために修行に励むところで、「表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手のこころをくみ取ってよく受け入れて」という意味で出てくるのですが、きっと法蔵菩薩は、悟りを求める自身のためにも、また同時に、多くの人々を仏道に導くためにも、大切な心がけの一つとして励まれたのでありましょう。

 「大きな顔」「浮かない顔」「しかめっ面」「涼しい顔」など顔の表情は様々です。

 「言葉は立ち居を表す」「言葉は身の文」など、言葉の使い方も様々です。

 しかし「言葉は心の使い」と言われるように、自らの日ごろの姿を省みると、言葉も顔も、自分自身のの心の有り様が自然と表れているように思います。

 今月は春のお彼岸です。お彼岸とはこの娑婆の岸からお浄土の岸に至らせて頂く道をたずねる行事です。

 「和顔愛語」、法蔵菩薩様の真似をして、少しずつでもお浄土への道を歩ませていただきたいものです。

 お寺の裏山ではホーホケキョ。「法を聞けよ」と鶯が鳴き始めました。どうぞお彼岸法要にお参りください。

3月16日~法蔵菩薩様の真似をして2025年03月16日【471】

3月1日~「させて頂きます」ということ

 木々が新芽を出す時期を「木の芽時」と言います。ようやくあたたかくなってきました。

 さて、私たちが日常使う言葉に「何々させて頂きます」があります。この言葉について、作家の司馬遼太郎さんがこのようなことをおっしゃっています。一部紹介します。

 『日本語には、させて頂きます、というふしぎな語法がある。この語法は上方から出た。ちかごろは東京弁にも入りこんで、標準語を混乱(?)させている。

 (中略)この語法は、浄土真宗(真宗・門徒・本願寺)の教義上から出たもので、他宗には、思想としても、言い回しとしても無い。

 真宗においては、すべて阿弥陀如来(他力)によって生かしていただいている。三度の食事も、阿弥陀如来のお蔭でおいしくいただき、家族もろとも息災に過ごさせていただき、時にはお寺で本山からの説教師の説教を聞かせていただき、途中、用があって帰らせていただき、夜は九時に寝かせていただく。

 この語法は、絶対他力を想定してしか成立しない。それによって、「お蔭」が成立し、「お蔭」という観念があればこそ、「地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました」などと言う。相手の銭で乗ったわけではない。自分の足と銭で地下鉄に乗ったのに、「頂きました」などというのは、他力への信仰が存在するためである。最も今は語法だけになっている。(『街道をゆく24近江散歩、奈良散歩』朝日文庫より)』

 司馬さんがおっしゃるとおり、今は語法だけ、形だけが残ってしまったことは残念なことですが、私の今日一日の一つ一つがアタリマエ、アタリマエではなく、阿弥陀如来の大いなるはたらきによって支えられている、生かされている、おかげのなかにあるという実感が、「させて頂きます」という言葉の中にあるということを、今一度ふり返りたいと思います。

 今月は春のお彼岸です。ぜひお寺にお参りください。

3月1日~「させて頂きます」ということ2025年03月01日【470】

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