浄土真宗の教章(私の歩む道)
宗名 | 浄土真宗(じょうどしんしゅう) |
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宗祖 (ご開山) |
親鸞聖人(しんらんしょうにん)
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宗派 | 浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅう ほんがんじは) |
本山 | 龍谷山 本願寺(西本願寺) |
本尊 | 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏) |
聖典 |
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教義 | 阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する。 |
生活 | 親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来の み心を聞き、念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり、慚愧と歓喜のうちに、現世祈祷などにたよることなく、御恩報謝の生活を送る。 |
宗門 | この宗門は、親鸞聖人の教えを仰ぎ、念仏を申す人々の集う同朋教団であり、人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝える教団である。それによって、自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する。 |
浄土真宗の生活信条
- 一、み仏の誓いを信じ 尊いみ名をとなえつつ 強く明るく生き抜きます。
- 一、み仏の光をあおぎ 常にわが身をかえりみて 感謝のうちに励みます。
- 一、み仏の教えにしたがい 正しい道を聞きわけて まことのみのりをひろめます。
- 一、み仏の恵みを喜び 互いにうやまい助けあい 社会にために尽くします。
食事のことば
- 食前のことば
- 多くのいのちとみなさまのおかげにより、この御馳走を恵まれました
深く御恩を喜び、ありがたくいただきます。 - 食後のことば
- 尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます
おかげで御馳走さまでした。
教書
宗教の課題と現代
宗教は、人間のかかえている究極的な問題、すなわち、老病死の苦悩の解決にかかわるものであります。釈尊が出家される機縁となったのも、その問題であり、老病死が迫っていることに気付く時、人間は、今ここに生きていることの意味を問わずにはおれません。この問題を解決しようとするところに、宗教の根本的な意義があります。
しかしながら、私たち人間は、歴史的社会的な制約の中に生きているのであり、宗教もその外に立つことはできません。とくに現代は、人類がいまだかつて経験したことのない変動の時代であります。それは科学と技術の発達や、産業の発展の上に顕著に見られるところですが、それだけではなく、その変動は人間の内面にも深い影響を及ぼしています。
技術の進歩と経済の発展は、人間の夢を次々と実現させましたが、それにともなって人間の欲望をも限りなく増大させました。他の人びとを顧慮せぬ自己中心的な欲望の追求は、差別と不平等を生む源となっています。人間中心の思想は、一面では自由と平等の実現のために貢献してきましたが、他面では人間を絶対化し、争いや不安を助長することにもなりました。
また都市化による地域共同体の弱体化や、大組織による人間管理の強化によって、人間は自らの依るべき根拠を失いつつあります。その結果、自己自身を見失い、ひいては他の人びとの人格や、生命一般の尊厳性をも正しく見ることができなくなってきています。しかもこのことは、人類の文化、さらには宗教にも影響し、伝統的な宗教の基盤をゆるがしています。
このような人類存亡の危機にあたって、一時的な慰めではなく、真の人間性を回復する道を見出すことこそ今日の宗教の使命であります。そのためには、私たち宗教者は、世俗的な力に迎合することなく、自らの信ずる教えを真摯に究めるとともに、同じ道を歩もうとする人びととも手を携えて努力しなければなりません。さらに、歴史と伝統をもつ他のすぐれた宗教との対話を試みることも必要と考えられます。
浄土真宗と念仏者の責務
親鸞聖人を宗祖と仰ぐ私たちの先人は、七百年を越える歴史の中で浄土真宗のみ教えをうけつぎ、念仏の道を伝えて下さいました。それは輝かしい伝統でありますが、今日、ともすればそれが単なる形の継承に終わろうとしているように思われます。私たちはそのことを謙虚に反省し、伝統の中からあらためて真実の精神をくみとらなければなりません。
阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、浄土で真のさとりに至るのが浄土真宗であります。このみ教えを聞き、それに信順して生きぬくところに信心の行者の姿があります。その生活は、如来の本願を究極の依りどころと仰ぐとともに、罪悪生死の凡夫であることにめざめた、喜びと慚愧の生活であります。さらに、如来の大悲につつまれて、人間相互の信頼を確立した御同朋御同行の生活でもあります。そこに、自分だけの殼に閉じこもらず、自分自身がつくりかえられ、人びとの苦しみに共感し、積極的に社会にかかわってゆく態度も形成されてゆくでありましよう。それが同時に、開かれた宗門のあり方でもあります。
宗門の基幹運動は、それらの目標を、人びとのふれあいの中で一つひとつ着実になしとげてゆくところに展開してゆきます。もとより、私たちの一人ひとりが真の信心の行者になってゆくことを根本にしていますが、それとともに、今日及び将来に向かって、全人類の課題を自らのものとして担う積極性が必要です。そのための基礎となる教学の形成と充実をはかり、それをふまえて、宗門内にとどまらず、広く世界にみ教えを伝えてゆかなければなりません。次代においてその中心となる宗教的情操豊かな青少年の育成も、私たちの責務であることは言うまでもありません。そこに宗門の本当の発展が実現されるでありましょう。
念仏は、私たちがともに人間の苦悩を担い、困難な時代の諸問題に立ちむかおうとする時、いよいよその真実をあらわします。私はここに宗祖親鸞聖人の遺弟としての自覚のもとに、閉ざされた安泰に留まることなく、新しい時代に生きる念仏者として、力強く一歩をふみ出そうと決意するものであります。
1980年4月1日
浄土真宗本願寺派門主 大谷光真
念仏者の生き方
仏教は今から約2500年前、釈尊(しゃくそん)がさとりを開いて仏陀(ぶっだ)となられたことに始まります。わが国では、仏教はもともと仏法(ぶっぽう)と呼ばれていました。ここでいう法とは、この世界と私たち人間のありのままの真実ということであり、これは時間と場所を超えた普遍的な真実です。そして、この真実を見抜き、目覚めた人を仏陀といい、私たちに苦悩を超えて生きていく道を教えてくれるのが仏教です。
仏教では、この世界と私たちのありのままの姿を「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と「縁起(えんぎ)」という言葉で表します。「諸行無常」とは、この世界のすべての物事は一瞬もとどまることなく移り変わっているということであり、「縁起」とは、その一瞬ごとにすべての物事は、原因や条件が互いに関わりあって存在しているという真実です。したがって、そのような世界のあり方の中には、固定した変化しない私というものは存在しません。
しかし、私たちはこのありのままの真実に気づかず、自分というものを固定した実体と考え、欲望の赴くままに自分にとって損か得か、好きか嫌いかなど、常に自己中心の心で物事を捉えています。その結果、自分の思い通りにならないことで悩み苦しんだり、争いを起こしたりして、苦悩の人生から一歩たりとも自由になれないのです。このように真実に背(そむ)いた自己中心性を仏教では無明煩悩(むみょうぼんのう)といい、この煩悩が私たちを迷いの世界に繋(つな)ぎ止める原因となるのです。なかでも代表的な煩悩は、むさぼり・いかり・おろかさの三つで、これを三毒(さんどく)の煩悩といいます。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)も煩悩を克服し、さとりを得るために比叡山(ひえいざん)で20年にわたりご修行に励まれました。しかし、どれほど修行に励もうとも、自らの力では断ち切れない煩悩の深さを自覚され、ついに比叡山を下り、法然(ほうねん)聖人のお導きによって阿弥陀如来(あみだにょらい)の救いのはたらきに出遇(あ)われました。阿弥陀如来とは、悩み苦しむすべてのものをそのまま救い、さとりの世界へ導こうと願われ、その願い通りにはたらき続けてくださっている仏さまです。この願いを、本願(ほんがん)といいます。我執(がしゅう)、我欲(がよく)の世界に迷い込み、そこから抜け出せない私を、そのままの姿で救うとはたらき続けていてくださる阿弥陀如来のご本願ほど、有り難いお慈悲(じひ)はありません。しかし、今ここでの救いの中にありながらも、そのお慈悲ひとすじにお任せできない、よろこべない私の愚かさ、煩悩の深さに悲嘆(ひたん)せざるをえません。
私たちは阿弥陀如来のご本願を聞かせていただくことで、自分本位にしか生きられない無明の存在であることに気づかされ、できる限り身を慎(つつし)み、言葉を慎んで、少しずつでも煩悩を克服する生き方へとつくり変えられていくのです。それは例えば、自分自身のあり方としては、欲を少なくして足ることを知る「少欲知足(しょうよくちそく)」であり、他者に対しては、穏やかな顔と優しい言葉で接する「和顔愛語(わげんあいご)」という生き方です。たとえ、それらが仏さまの真似事(まねごと)といわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、そのように志して生きる人間に育てられるのです。このことを親鸞聖人は門弟に宛てたお手紙で、「(あなた方は)今、すべての人びとを救おうという阿弥陀如来のご本願のお心をお聞きし、愚かなる無明の酔いも次第にさめ、むさぼり・いかり・おろかさという三つの毒も少しずつ好まぬようになり、阿弥陀仏の薬をつねに好む身となっておられるのです」とお示しになられています。たいへん重いご教示です。
今日、世界にはテロや武力紛争、経済格差、地球温暖化、核物質の拡散、差別を含む人権の抑圧など、世界規模での人類の生存に関わる困難な問題が山積していますが、これらの原因の根本は、ありのままの真実に背いて生きる私たちの無明煩悩にあります。もちろん、私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲に執(とら)われた煩悩具足(ぼんのうぐそく)の愚かな存在であり、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯(せいいっぱい)努力させていただく人間になるのです。
国の内外、あらゆる人びとに阿弥陀如来の智慧(ちえ)と慈悲(じひ)を正しく、わかりやすく伝え、そのお心にかなうよう私たち一人ひとりが行動することにより、自他ともに心豊かに生きていくことのできる社会の実現に努めたいと思います。世界の幸せのため、実践運動の推進を通し、ともに確かな歩みを進めてまいりましょう。
2016(平成28)年10月1日
第25代門主 釋専如