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8月1日~悩み苦しみの現実に身を置きながら…

 「夜の秋」とは夏の季語。厳しい暑さの日が続いても、ふと秋を想う涼しさを感じさせる夏の夜をさすそうです。

 さて先日、鹿児島市内の鶴丸城のお堀沿いの道路を車で通りかかったら、蓮の花がきれいに咲いていて、それを写真に収める多くの通行人の姿がありました。

 仏教の花と言えばこの蓮の花です。仏像のほとんどが蓮の花の形をした台座に座るか、もしくは立っておられ、最高に清らかなところから、私たちを見守っていてくださいます。

 また、観音菩薩や勢至菩薩はまだ開いていないつぼみの蓮をもっています。これは菩薩という存在は、今はさとりを開いていませんが、ご修行の果てにやがて必ずさとりを開くことができることを表しているそうです。

 なぜ、蓮の花が仏教を象徴する花かというと、蓮の花は、濁った泥の中で芽を出し成長していきますが、花は泥に染まることなく、やがて一輪の清らかで美しい花を咲かせます。

 これと同じように、仏さまのみ教えを聞き、少しずつでもそれを実践して人生を送る人は、怒りや腹立ちやねたみやそねみが渦巻き、悩みや苦しみの多い現実社会にその身を置きながらも、蓮の花のように清らかで、美しい人生を送ることができることを表しているからです。

 蓮の花の上にお立ちになる阿弥陀如来は、私たちが清らかでこころ豊かな人生を送るために、その救わんとするおはたらきを南無阿弥陀仏という名号にこめて届けてくださっています。

 人生が辛いとき、悲しいときは南無阿弥陀仏。阿弥陀さまがその辛さ悲しさから解放されるときまで寄り添ってくださいます。

 嬉しいとき楽しいときも南無阿弥陀仏。阿弥陀さまが共に慶び、その慶びをさらに意義あるものにしてくださいます。

 お念仏と共に、蓮の花のようない清く美しく、こころ豊かな人生を送って参りましょう。

8月1日~悩み苦しみの現実に身を置きながら…2024年08月02日【457】

7月16日~人間の存在そのものを見通して

 炎暑の夏ほど、せせらぎの音がすてきに聞こえる季節はありません。

 さて、先週のテレホン法話を聞いて下さったご門徒のBさんが、お寺にお参りになって、「他力本願とは昔からよく耳にしていましたが、他人の力を借りることじゃなかったんですね」と、話しかけてくださいました。

 他力本願について、本当の意味をご理解いただいたうれしさと同時に、私自身の常々の伝道不足をあらためて反省することでありました。

 「他力というは如来の本願力なり」と親鸞聖人が端的におっしゃっているとおり、他力とは、私をお救いくださる阿弥陀如来の本願力そのもののことです。

 一般に、他力の反対は自力と表現され、自力は自分を信じて、自分で努力によって迷いの世界を脱して、仏さまのさとりを得ようとすることです。

 親鸞聖人は九歳で出家され二十年という長い間、比叡山で自力の行に専念されましたが、自身の迷いを絶つことが難しく、本願念仏による救いを求めて法然聖人をたずねて行かれました。

 その生涯を通して聖人が自覚されたことは、親鸞この私は、真実のことは何もわからない愚かな私であるということと、そのような何もわからぬ凡夫を、そのままそっくり救いとってくださる阿弥陀という仏さまがおられるということです。

 一切事象の真実がわかるならばそれはさとりの世界であり、それはそのまま仏さまです。聖人にはどのような修行も完成できず、行に勤しめば勤しむほど迷いの世界に堕ちていくご自身の姿があり、聖人は真実が何かを見極める能力もなく、善悪を知り通す力もなく、生死を超える道を求めることもできない愚かな私を、そのまま救いとってくださる力こそ阿弥陀如来の本願力であることを諭されたのです。

 ですから自力は自分のはたらきこそ、他力は他人の力という単純な意味ではなく、他力とは、自他のとらわれを超えて、人間の存在そのものを見通して救わんと常にはたらく阿弥陀如来の本願力のことであります。

7月16日~人間の存在そのものを見通して2024年07月17日【456】

7月1日~自分の力では困難なこと

 七月二日は半夏生、もう一年の折り返し地点です。

 さて、先月十九日の南日本新聞に、翌二十日の鹿児島県知事選告知を前に、選挙管理委員会が啓発ポスターを作成したとの記事が掲載されました。

 その内容は、「こんな知事には県の運営を任せてはおけない」というユーモアを交えた架空の四人の知事が掲載されており、一つは柴犬の「犬知事」、寒いギャグを連発する「おやじギャグ知事」、実在するかも怪しい「バーチャル知事」、そして何かと人任せの「他力本願知事」という計四人が掲載されていました。

 新聞記事によると、投票率が低い傾向にあって、若い方々に選挙に関心を持ってもらうことを願って、また有権者に選挙を自分事としてとらえてもらうために作られたポスターでした。

 それに対し、本願寺鹿児島別院と鹿児島の浄土真宗六派で構成される真宗教団連合鹿児島支部より抗議文が提出されました。

 それは、「他力本願」という浄土真宗でもっとも大切にされる言葉が誤った意味で使用されていたからです。

 「他力本願」というと時折、「もっぱら他人の力をあてにする、他人まかせ」という意味で使われ、今回も人任せ知事として同様の意味で用いられていますが、これは大変な誤用だからです。

 他力とは阿弥陀如来の本願のはたらきであり、他力本願は阿弥陀如来より、私たち一人ひとりに向けられた救いの力であります。

 私たちの心は、怒りや腹立ちやねたみそねみ、また驕り高ぶりが常にまん延して、自分の力で悟りの道に向かうことはとても困難なことです。

 そのような私たちに、「この阿弥陀仏にまかせよ、わが名・南無阿弥陀仏を称えよ、必ず浄土に生まれさせて仏にならしめん」と向けられた真実の願いを阿弥陀如来の本願と言います。

 本願寺からの抗議を理解してくださり、すぐさま適切な対応をしてくださった県の選管様には感謝とともに敬意を示したいと思います。

 共々に「他力本願」のお言葉を正しく聞き開いて参りましょう。

7月1日~自分の力では困難なこと2024年07月01日【455】

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