3月1日~「させて頂きます」ということ
木々が新芽を出す時期を「木の芽時」と言います。ようやくあたたかくなってきました。
さて、私たちが日常使う言葉に「何々させて頂きます」があります。この言葉について、作家の司馬遼太郎さんがこのようなことをおっしゃっています。一部紹介します。
『日本語には、させて頂きます、というふしぎな語法がある。この語法は上方から出た。ちかごろは東京弁にも入りこんで、標準語を混乱(?)させている。
(中略)この語法は、浄土真宗(真宗・門徒・本願寺)の教義上から出たもので、他宗には、思想としても、言い回しとしても無い。
真宗においては、すべて阿弥陀如来(他力)によって生かしていただいている。三度の食事も、阿弥陀如来のお蔭でおいしくいただき、家族もろとも息災に過ごさせていただき、時にはお寺で本山からの説教師の説教を聞かせていただき、途中、用があって帰らせていただき、夜は九時に寝かせていただく。
この語法は、絶対他力を想定してしか成立しない。それによって、「お蔭」が成立し、「お蔭」という観念があればこそ、「地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました」などと言う。相手の銭で乗ったわけではない。自分の足と銭で地下鉄に乗ったのに、「頂きました」などというのは、他力への信仰が存在するためである。最も今は語法だけになっている。(『街道をゆく24近江散歩、奈良散歩』朝日文庫より)』
司馬さんがおっしゃるとおり、今は語法だけ、形だけが残ってしまったことは残念なことですが、私の今日一日の一つ一つがアタリマエ、アタリマエではなく、阿弥陀如来の大いなるはたらきによって支えられている、生かされている、おかげのなかにあるという実感が、「させて頂きます」という言葉の中にあるということを、今一度ふり返りたいと思います。
今月は春のお彼岸です。ぜひお寺にお参りください。
2025年03月01日【470】