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11月1日~くらべたりくらべられたり…
日足も短くなり、秋風が心地よい季節となりました。
さて、ご法事などでよくお勤めされる、『仏説阿弥陀経』というお経の中に、「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という言葉があります。
「青色は青色の光を放ち、赤色は赤色の光を放ち・・・」と、阿弥陀様のお浄土の世界では、それぞれの蓮の花が、それぞれの色で光輝いて咲いるということが説かれています。
これは、すべての命は、わけへだてされることがない平等の命であり、一つ一つの命が対立したり、差別されたり、見下げられたりすることなく、それぞれに精いっぱいに喜び、光り輝いていることを表したものです。
私たち人間一人ひとりは、それぞれの考え方、価値観を持ちつつ毎日を送っています。
青色の価値観の人もいるでしょう。黄色の価値観の人もいるでしょう。赤色の考え方を持った人もいるでしょう。
それぞれの人がそれぞれの考え方、価値観を認め合い、尊重し合うことができればよいのですが、時には、自分の価値観を相手に押しつけたり、対立したり、相手を認めることができなかったりすることもあります。
また、自分と他人を比較して劣等感を感じ落ち込んだり、逆に、少しでも他人より自分に秀でたところがあれば、心の中に驕り高ぶりまで出てくるのが私の姿です。
そのような私の姿を見抜いて、くらべたり、くらべられたりすることのない、一つ一つの命が喜び輝く世界をお示し下さった仏さまが阿弥陀如来です。
「どんなあなたでも、尊い命をいただいているのだから、あなたはあなたのままでいい。あなたはあなたの人生をそのままで、精一杯生きてゆけばそれでよい」と、常にこの私を照らし導いてくださっている、その願いとはたらきが六字にこめられたのが南無阿弥陀仏のお念仏です。
これからも阿弥陀様のみ教えを、共々に聞かせいただきましょう。
11月1日~くらべたりくらべられたり… | 2024年11月01日【463】
10月16日~たゆまない歩みが認められて…
秋風は古くからせつなさや寂しさの象徴とされ、どこか哀愁を帯びた邦楽の律音階に似て、「律の風」とも呼ばれてきました。
さて、菩薩さまの修行の一つに「精進」がありますが、これはひたすら仏道修行に励むことを意味します。仏さまの願いにかなった善き行に励むことで、この姿を日常生活を営む私たちが学ぶと、今いのちを生きる私自身にとって、今できること、正しい行いにひたすら励むことと受け止めることができます。
今月十一日、ノルウェーのノーベル委員会は、2024年のノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体協議会・(日本被団協)に授与すると発表しました。
ノーベル委員会は被団協の方々に対し、「肉体的苦痛やつらい記憶にもかかわらず、平和への希望、関与をはぐくむために役立てることを選んだすべての被爆者をたたえたい」といたわり、そして「いつの日か、被爆者は歴史の証人ではなくなるだろう。ただ、日本の若い世代は被爆者の経験とメッセージを受け継いでいる。彼らは世界中の人々を鼓舞、教育している。人類の平和な未来の前提条件である、『核兵器のタブー』を維持する一助になっている」と、その活動を讃えました。
日本被団協の結成宣言には、「私たちの胸につもったかなしみと怒り、悩みと苦しみについてのつきることもない語り合いは、決してひとときのなぐさめや、きやすめのためではありませんでした。手をつないで決然と立ち上がるためにほかなりませんでした。世界に訴うべきは訴え、国家に求むべきは求め、自ら立ち上がり、たがいに相救う道を講ずるためでありました」と、その固い決意が述べられており、これまでのさまざまな国際会議への出席、原爆展の開催、署名活動などのたゆまない歩みが認められ、そしてその決然とした歩みが日本の新しい若い世代にまで受け継がれていることが、極めて重要だと委員会は評価しています。
ノーベル平和賞の受賞を心からお祝いすると共に、日本被団協の活動に、精進の心得を学ぶ思いでありました。
10月16日~たゆまない歩みが認められて… | 2024年10月15日【462】
10月1日~すまない心が ぐいぐいと…
稔りの秋、食欲の秋となりました。
さて、先日のニュースで、今年はお米不足が心配されていましたが、食卓にはおいしい新米が届くでしょうか。
僧侶で、教育者として高名な故・東井義雄先生が著書の中で、「おべんとう」について、生徒の輝雄君の詩を紹介されています。
けさ 学校に来がけに ちょっとしたことから母と言いあいをした
ぼくは どうにでもなれと思って 母をぼろくそに言い負かしてやった
母が困っていた
そしたら 学校で 昼になって 母の入れてくれた弁当の蓋をあけたら
ぼくのすきなかつおぶしが パラパラと ふってあった
おいしそうに におっていた
それを見たら ぼくは けさのことが思い出されて 後悔した
母は いまごろ さびしい心で 昼ご飯を食べているだろうかと思うと
すまない心が ぐいぐい こみあげてきた
今はすべての学校が給食なので、きっと学校給食が整ってない時代のことでありましょう。
東井先生は、学校で、弁当の蓋をあけるときの、何とも言えない楽しそうな子どもの顔、蓋の横から何が入っているかのぞきこむようにして、やおら蓋をあける子どもの様子、好きなおかずが入っていたときの輝くような子どもの顔を見ながら、お弁当の時というのは、お母さんとの出会いの時だと思うようになったとおっしゃっています。
お母さんをぼろくそに言い負かして得意になっている輝雄君のために、さみしい気持ちになりながらも、輝雄君のために大好きなかつお節を振りかけてやらずにはおれないお母さん。
輝雄君はそのお弁当を通して、その場にはいないお母さんと出会っています。 稔りの秋、手作りのお弁当をいただきたくなりました。
10月1日~すまない心が ぐいぐいと… | 2024年10月03日【461】