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8月16日~大切なこと伝える貴重な機会

 それぞれの季節のはじめに吹く風を初風といいますが、秋の初風はいつ吹くのでしょうか。

 さて、今年も初盆をお迎えになったご門徒方がたくさんお寺にお参りいただきました。

 お寺の受付で初盆でお参りのご門徒をお待ちしていると、おばあさんとお孫さんと見受ける高齢の女性と若い女性の二人がお越しになりました。

 すると、高齢の女性が若い女性を促すようにして、二人でていねいなご挨拶をしてくださいました。

 次ぎに、高齢の女性が若い女性に、風呂敷で包んだお供え物を出すように促し、そのお供え物の上に、カバンからお布施を取り出して乗せるようにして、「本日は祖父の初盆で参りました。どうぞよろしくお願いいたします」と、誠にていねいなご挨拶をいただきました。

 その後に、高齢の女性が私に向かって、「孫はこの度初めて身内の初盆を迎えます。ですから、一つ一つ教えながら参っております」とおっしゃり、今度は孫に対して「今日はまた、いい勉強をしたね」と言って本堂に向かわれました。

 私はその二人の後ろ姿をたのもしく、ありがたく見送りました。

 山本五十六さんの名言に、「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」 という言葉がありますが、これは軍事の教育とは離れた仏事の場面でも同じことが言えるかもしれません。

 核家族がアタリマエになり、以前は家の中で自然の内に受け継がれ伝えたれてきた大切な事柄が伝わらない時代になりました。

 初盆や年忌法事とときに、親から子へ、子から孫へと、仏事にかかわる大切なことを一つ一つていねいに伝えることは貴重な機会です。

 やってみせて、説明して聞かせて、させてみせて、できたら褒めるなかで、仏事の心をお伝えください。

8月16日~大切なこと伝える貴重な機会2024年08月17日【458】

8月1日~悩み苦しみの現実に身を置きながら…

 「夜の秋」とは夏の季語。厳しい暑さの日が続いても、ふと秋を想う涼しさを感じさせる夏の夜をさすそうです。

 さて先日、鹿児島市内の鶴丸城のお堀沿いの道路を車で通りかかったら、蓮の花がきれいに咲いていて、それを写真に収める多くの通行人の姿がありました。

 仏教の花と言えばこの蓮の花です。仏像のほとんどが蓮の花の形をした台座に座るか、もしくは立っておられ、最高に清らかなところから、私たちを見守っていてくださいます。

 また、観音菩薩や勢至菩薩はまだ開いていないつぼみの蓮をもっています。これは菩薩という存在は、今はさとりを開いていませんが、ご修行の果てにやがて必ずさとりを開くことができることを表しているそうです。

 なぜ、蓮の花が仏教を象徴する花かというと、蓮の花は、濁った泥の中で芽を出し成長していきますが、花は泥に染まることなく、やがて一輪の清らかで美しい花を咲かせます。

 これと同じように、仏さまのみ教えを聞き、少しずつでもそれを実践して人生を送る人は、怒りや腹立ちやねたみやそねみが渦巻き、悩みや苦しみの多い現実社会にその身を置きながらも、蓮の花のように清らかで、美しい人生を送ることができることを表しているからです。

 蓮の花の上にお立ちになる阿弥陀如来は、私たちが清らかでこころ豊かな人生を送るために、その救わんとするおはたらきを南無阿弥陀仏という名号にこめて届けてくださっています。

 人生が辛いとき、悲しいときは南無阿弥陀仏。阿弥陀さまがその辛さ悲しさから解放されるときまで寄り添ってくださいます。

 嬉しいとき楽しいときも南無阿弥陀仏。阿弥陀さまが共に慶び、その慶びをさらに意義あるものにしてくださいます。

 お念仏と共に、蓮の花のようない清く美しく、こころ豊かな人生を送って参りましょう。

8月1日~悩み苦しみの現実に身を置きながら…2024年08月02日【457】

7月16日~人間の存在そのものを見通して

 炎暑の夏ほど、せせらぎの音がすてきに聞こえる季節はありません。

 さて、先週のテレホン法話を聞いて下さったご門徒のBさんが、お寺にお参りになって、「他力本願とは昔からよく耳にしていましたが、他人の力を借りることじゃなかったんですね」と、話しかけてくださいました。

 他力本願について、本当の意味をご理解いただいたうれしさと同時に、私自身の常々の伝道不足をあらためて反省することでありました。

 「他力というは如来の本願力なり」と親鸞聖人が端的におっしゃっているとおり、他力とは、私をお救いくださる阿弥陀如来の本願力そのもののことです。

 一般に、他力の反対は自力と表現され、自力は自分を信じて、自分で努力によって迷いの世界を脱して、仏さまのさとりを得ようとすることです。

 親鸞聖人は九歳で出家され二十年という長い間、比叡山で自力の行に専念されましたが、自身の迷いを絶つことが難しく、本願念仏による救いを求めて法然聖人をたずねて行かれました。

 その生涯を通して聖人が自覚されたことは、親鸞この私は、真実のことは何もわからない愚かな私であるということと、そのような何もわからぬ凡夫を、そのままそっくり救いとってくださる阿弥陀という仏さまがおられるということです。

 一切事象の真実がわかるならばそれはさとりの世界であり、それはそのまま仏さまです。聖人にはどのような修行も完成できず、行に勤しめば勤しむほど迷いの世界に堕ちていくご自身の姿があり、聖人は真実が何かを見極める能力もなく、善悪を知り通す力もなく、生死を超える道を求めることもできない愚かな私を、そのまま救いとってくださる力こそ阿弥陀如来の本願力であることを諭されたのです。

 ですから自力は自分のはたらきこそ、他力は他人の力という単純な意味ではなく、他力とは、自他のとらわれを超えて、人間の存在そのものを見通して救わんと常にはたらく阿弥陀如来の本願力のことであります。

7月16日~人間の存在そのものを見通して2024年07月17日【456】

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