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2月16日~小さいことを重ねる大切さ

 春には、淡いという言葉がよく似合います。ほのかにかすむ感じ、美しい余韻を感じる言葉です。

 さて、先月一月二十一日、米国の野球殿堂は今年の殿堂入りの表彰者を発表し、イチローさんがアジア人で初めて選出されました。

 プロ野球・オリックスから、二〇〇〇年のオフに大リーグ・マリナーズに移籍し、二〇〇一年から十年連続で二百安打を記録、同時にゴールドクラブ賞を十年連続で獲得、大リーグ通算十九年で三〇八九安打を記録し、走攻守そろった外野手として、その功績が認められたものであります。

 その功績を讃える新聞記事で、イチローさんの言葉が一つ紹介されていました。

 「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの道だ」

 その記事には、現役時代では普段の生活から全身の筋肉を意識しながら生活をしていたとありましたが、この言葉の通り、日々の厳しい練習はもとより食事や睡眠、休養の取り方など、計り知れないほどの努力を積み重ねてこられたのだろうと察することです。

 仏教には「精進」という言葉がありますが、これは「雑念を去って、仏道修行に専心する」ということですが、それが「目標に向かって怠ることなく一途に取り組んでその道を究める」という意味で広く使われるようになりましたが、イチローさんの「小さいことを積み重ねること」という言葉から、同様の意味が感じられます。

 またこの「精進」の元のインドの言葉は、virya(ヴィーリヤ)の訳語で、本来は「剛健」「勇者」「勇敢さ」という意味であり、一心に仏道修行を歩むものには、勇者のような気概を持ってたゆまず努め励む姿が理想であり、これも現役時代のイチローさんのその姿勢から感じられることです。

 この「精進」は元来雑念を去って、仏道修行に専心することです。浄土真宗の唯一の修行といえば仏法聴聞です。仏さまのみ教えを重ねて聞き続けることが、お浄土に参らせていただくただ一つの道です。来月は春のお彼岸です。ぜひお寺にお参りください。

2月16日~小さいことを重ねる大切さ2025年02月16日【469】

2月1日~罪の意識と後悔の思いを抱いて

 立春を過ぎると、光の輝きは次第に春めいてきます。

 さて、昨年の九月にラジオであるニュースを耳にしました。

 熊本市の戸島神社で、日ごろから神社の管理をしている総代会の人たちが賽銭の回収に訪れたとき、箱の中に手紙と十万円が入った封筒があったそうです。

 手紙には、「三十年以上になります。小さいころ家がまずしくてさいせんから、ぬすみました。本当にすいません。しっかりがんばってそれ以上のお金をお返しいたします。ずーっと考えてまして、今日、これて本当によかったです」。

 それは、過去の過ちを謝罪する手紙と償いとしての現金十万円でした。

 きっとこの人は幼い頃、貧しさの上から賽銭箱からお金を盗んでしまったことを三十年数年間、ずっと罪の意識と後悔の思いを抱いてきたのでありましょう。いつかいつかお返しなければとの思いを抱いてきたことが察せられる手紙です。

 もちろんお金を盗むことは犯罪ですから、その行為は許されるものではありません。後からお金を返してその時の罪がすべて消えるわけでもありません。またこのニュースを美談とすることも慎まねばなりません。

 しかしこのニュースを聞いてなぜか温かな気持ちになるのはどうしてでしょう。

 人は皆、完全な人は誰もいません。長い人生の中で、お金やものを盗むまではなくとも、言動や行動で他人を傷つけたり、過ちを犯したりすることはだれしもあることで、その重い罪の意識と後悔の思いにさいなまれることはあることです。人ごとではありません。

 しかしその思いを三十年以上消し去ることをせず、どうにか償いをしたいというその一人の人間の姿に感動を覚えるのです。

 「昔のことを反省して立ち直る姿を想像し、温かい気持ちになった」、「お金は神社のために使いたい。本人にも感謝を伝えられたらいいのだが…」。それは神社総代さんのこのような言葉にも表れています。

2月1日~罪の意識と後悔の思いを抱いて2025年02月02日【468】

1月16日~病気を得てそのことを楽しむ

 早いもので一月も半ばです。

 さて私事で恐縮ですが、二日前からインフルエンザに感染し寝室に隔離されています。

 高熱が続く中、布団に横になりながら頭に浮かんできたのは、「浄土を願う行人(ぎょうにん)は、病患 ( びょうげん ) をえて、ひとえにこれを楽しむ」という言葉です。

 この言葉は、本願寺八代目の宗主・蓮如上人が往生される前年、八十四歳の時にお書きになった『御文章』にある言葉で、法然聖人のお言葉として紹介されています。

 蓮如上人がお亡くなりになる前年ですので、きっと身体的にも精神的にも衰弱されていたと察しますが、その現代語訳は、法然聖人は「浄土を願う人は、病気を患ったとき、ひとえに浄土往生が近いとこれを楽しく思う」とおっしゃいましたが、私には病気を喜ぶような心境には到底なれません。浅ましい我が身であります。恥ずかしく悲しい思いでありますという意味です。

 インフルエンザは数日も寝ていれば完治する病気ですが、これが重度の病、あるいは死を意識しなければならない病に罹患したときに、「病患をえて、ひとえにこれを楽しむ」という境地にはなかなかなれないのだろうと思います。

 ただ、この度発病してから、幼稚園の職員方からは「幼稚園は大丈夫ですからゆっくりとお休みください」との言葉をいただきました。お葬儀・ご法事をお迎えのご門徒には、病気の理由を言ってご理解をいただき代わりの僧侶に出向いてもらいました。家にあっては、坊守がお仕事をしながら三度三度の食事を寝室まで運んでくれました。

 アタリマエの日常がアタリマエでないことに、また気づかされた思いです。

 煩悩をかかえた私には、病気を得てそのことを楽しむことはなかなか難しいことですが、病気によってあらためて日ごろのお陰さまに深く感謝し、お念仏を喜ばせていただくことはできます。

1月16日~病気を得てそのことを楽しむ2025年01月16日【467】

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