こころの電話

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2005年11月15日

「一つ思われ、二つ憎まれ、三つ風邪ひき」という諺があります。くしゃみ一つは誰かに思われ、二つは悪く言われ、三つは風邪ひきですよということですが、あなたのくしゃみはいくつでしょうか。

さて、先日、ある結納式に出席をしました。男性が鹿児島のお寺のご子息で、女性が熊本の一般のお宅の方で、その仲人を依頼されたためです。若輩で不慣れですから…とお断りをしたのですが、たっての願いということでお受けしました。

鹿児島のお寺から結納のお品を車に積み、熊本の女性宅に着いて、誠になれない手つきで準備をしました。そして、まず最初に、女性宅のお仏壇の前に両家親族皆座り、いっしょににお勤めをしてお参りをしました。

結納式で、新たな人生を送ろうとする若い二人は、とても輝いて見えました。そして、二人をはじめ皆一同に仏さまに手を合わす姿は、とても和やかで美しく見えました。

私たち一つの家に住む家族に、三つの姿があるといわれます。

一つは、互いに背を向け合って暮らすということで、互いに顔を向け合うことも言葉を交わすこともなければ、意思の疎通もはかれない家族の姿です。

二つには、互いに向き合って暮らすということで、顔を向け合い言葉を交わし、意思の疎通もはかれますが、時には意見がぶつかり合い、ひどいときには背を向け合うことにもなりかねません。

三つには、同じ方向を向く。つまり、手を合わせ、仰ぐものをともに持ちながら暮らすということです。一つ屋根の下に暮らすそこには、喜びもあり、悲しみもあり、苦しみもあります。老若男女ともに過ごすわけですから、時には意思の疎通がはかりにくかったり、いがみ合うことさえあります。が、そのような一人一人が一つの方向を向き、手を合わせ、ともに仰ぐ指標を持つことは家族にとってとても大切なことです。

ご両家がともに手を合わす姿に、その大切さをあらためて感じることでした。

なお、冒頭で申しましたが、寒さが厳しくなります。くしゃみ三つの時は、すぐに風邪薬をおのみ下さい。

2005年11月15日2005年11月15日【5】

2005年11月1日

晩秋から初冬へと、寒さが日に日に増してまいります。

さて、先日テレビのニュース番組で、四文字熟語を知らない若者がますます増えつつあるという放送がありました。

以前、「弱肉強食」を「焼肉定食」と書いた若者がいて、驚きと笑いを誘ったことがありましたが、それがますます進んでいるというのです。

四文字熟語の中にも、仏教の経典から出たものがたくさんあるのですが、その中に、「一水四見」というのがあります。「いっすい」とは数字の一に水、「しけん」は数字の四に見ると書いて「一水四見」です。

これは、私たち人間が水と見るものでも、人間以外の生き物が見ると異なったものに見える、という考え方を示しています。たとえば、人間が水と見るものを、天人は宝石でできた大地、地獄の住人は泥であふれた池、魚は自分の住処や道路と見るというのです。

これは人間同士でも同じです。私が美人と見る女性でも、私の友人は不美人と見ることもあります。逆に友人がいい人と見る人でも、私はそうではないと思うこともあります。人それぞれ、その人のモノサシによって見方が変わってくるのです。

「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」といいます。大きな甲羅の蟹は大きな穴を、小さな甲羅の蟹は小さな穴を掘る。つまり、人は分相応の思いや行いをすることのたとえです。

ということは、私たちは、自分の器量で人や物事を見て判断しているわけです。器量の大きな人、心の広い人は、温かい目で、大きな視野で人を見ますから、相手をよく見ることができます。もっと言うと誰でも受け入れることができます。

したがって、もし私が相手を嫌いな人、悪い人と見るならば、それは自分の見る目が狭く、心が小さく、冷たいからだと反省する必要があるようです。

「一水四見」。人それぞれ見方、感じ方は異なりますが、自分の周りの人を、だれでも受け入れられるような、広い心の持ち方を、仏さまの教えに学びたいものです。

2005年11月1日2005年11月01日【6】

2005年10月15日

食欲の秋です。

さて、宗教評論家のひろさちやさんが、スリランカに旅をしたときの出来事です。

魚市場のある小さな魚屋で、木の台の上に、三十センチほどの魚が一匹乗せられて、その横に三人の男が立っていました。

「あななたちは何をしているのですか」と、ひろさんが尋ねると、「私たちは魚を売っています」と男たちは答えました。

続いて、「これは、今日最後の魚ですか。この魚はどこから仕入れたものですか」と聞くと、男たちは、「いえ、今日は最初からこの魚一匹だけです。これは私たちが海から捕ってきました」と答えました。

それを聞いて、ひろさんは唖然としたそうです。そして、「大の男三人して一匹の魚を売りに来る必要はないのではないですか。一人が売って、あとの二人は魚捕りに行けばいいじゃないですか。もっと儲かるように考えなければ。あまりにものんびりしすぎだと思うんですが…」と、男たちに問いかけました。

すると、三人のうちの一人が、「でも、今日はこの一匹だけを売れば充分だ。あしたの魚は、あしたまた海に行って捕ってくる。それで充分だ」と答え、もう一人の男が、「海にはいつでも魚がいるから…」と付け加えたそうです。

この言葉を聞いて、ひろさんは、私たち日本人が忘れ去った大切なことに気付かされたといいます。

つまり、「欲少なくして、足るを知る心を持ちなさい」ということです。つまり、今日はこの一匹の魚で充分だ。あしたの魚は、あしたまた海で捕って、あしたを過ごせばよいという、つつましやかな生活です。一匹だけであれば、もし売れなかったら、彼らの家で食べればよいのです。冷蔵庫が普及していないスリランカでは、二匹も三匹もあれば腐らせてしまうのです。

冷蔵庫に入れればいいじゃないかと思いますが、あしたの魚はあした捕れば、海の魚は一日だけ長生きができます。

文明の進んだ人類だけが、もののいのちを必要以上に奪い、保存しながら生活をしているということを、食欲の秋、心のどこかにとどめていたいものです。

2005年10月15日2005年10月15日【7】

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