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2006年2月15日
トリノオリンピックでは、日本の選手達が一生懸命頑張っていますが、なかなか世界トップの壁は厚いようです。
さて、デンマークの新聞がイスラームの預言者・ムハンマドの風刺画を掲載したことによる怒りは、各地で暴動と化し問題となっています。イスラーム信者が心より敬愛する創始者を、言論の自由を盾に、安易に中傷することは許されませんが、またそれに対する怒りを、暴力で主張することも許されることではありません。
このムハンマドは数々の奇跡を起こしたといわれるのですが、ある日、ムハンマドは「私は山を動かす」と予告しました。当日になって、大勢の見物人を前に、ムハンマドは、「おーい、山よ。こちらに来い」と大声で三度、山に命じたそうです。しかし山は動きません。そこでムハンマドは言いました。「かくなるうえは、私が山へ歩いていこう」。
これが奇蹟だそうです。どういうことでしょうか。
話は変わりますが、中国の六世紀のお坊さん、傅大士の言葉に、「橋は流れて川は流れず」というものがあります。人間の常識では、川が流れて、その上に架けられた橋は動きません。しかし、私たち人間の視点を、流れる川の水に合わせれば、水が固定して橋が流れているとも言えます。禅宗のお坊さんの傅大士は、そのようなものの見方の可能性をこの言葉で示しているのです。
私たち人間は、他人とケンカになったとき、相手が悪い、相手が謝ってこないと言っては、いつまでも対立を続けることがよくあります。家庭内での小さなケンカも、国同士の大きな戦争も同様です。しかし、相手が謝ってこなくとも、自分の方から謝っていけば、相手が謝ってきたのと同じ状態になります。
私たちは、自分ががんとして動こうとせず、相手を動かすことばかりに執着しがちですが、考え方もしくは視点を変えると、相手が動かずとも、こちらが動けばいいわけで、それによって物事が好転することも多々あるわけです。
ムハンマドが自ら山へ歩いて行ったのも、傅大士が「橋は流れて川は流れず」と言ったのも、そのものの見方、考え方の転換を示したものです。
私たちの生活のなかでも、このようなことはないでしょうか。
2006年2月15日 | 2006年02月15日【18】
2006年2月1日
2月は如月、夜空が最も美しい月です。
さて、先月末、ライブドアの堀江貴文社長が逮捕されるという大きな事件がありました。
巧みな企業の合併と買収によって、33歳という若さで巨大グループの総帥となり、多くの人気を博した堀江さんでしたが、一転して容疑者という立場になりました。
逮捕を機に彼を悪く言うのはさけるべきですが、それ以前より私には、首をかしげる彼の行動がありました。きっと私だけではないと思うのですが、それは、堀江さんはどのような場においてもTシャツや普段着の姿たったということです。
近鉄球団やフジテレビの買収に係る大切な会議の場でも、昨年の総選挙で多くの選挙民を前に演説をするときも、また正式な公の場で話をするときも、普段着だったということです。
社会人が仕事で初めて面会するときや、正式な商談をするときは、男性はネクタイに背広というのが一般の社会通念です。多くの人々を前に大切な話をするときも同様ですが、堀江さんはどのような場においてもそうではありませんでした。
服装というのは人それぞれ自由ですが、同時にそれは自分だけのためでなく、相手に対する敬意という意味も含まれています。
私たちは普段、「心」という字に「身」とかいて心身と言いますが、元来仏教では、「身」という字に「心」と、逆に書いて身心と言いました。つまり、まず身を正してこそ、心が整えられるということです。
近鉄球団にしても、フジテレビにしても、それまで会社を支えてきた多くの人々と歴史があります。その会社を一人の若者が経営する会社に譲るか譲らないか、買収される側には大きな責任があります。無論お金の主たる問題でしょうが、堀江さんのそのような姿勢で、本当に心が通い合う話が出来るのだろうかと疑問に思うのでした。
「お金があれば何でもできる。人の心でも買える。はっきりいうと人の命だって買えるんですよ」と豪語してはばからない彼の心が、形に表れたような感を受けました。
気持ちさえあれば形は自由、どのようであってもよいではないかという今の時代だけに、考えてみたいことの一つです。
2006年2月1日 | 2006年02月14日【17】
2006年1月15日
二〇〇六年が明けて半月、東北地方の大雪や仙台市の赤ちゃんの誘拐事件、大阪堺市では母子の強盗殺傷事件など、今年は大変な幕開けとなりましたが、そういう中にあって、安否が心配された柊羽ちゃんが助かったのには、胸をなで下ろす思いでした。
さて昨年末、教育関係の研修会である先生の講演をお聞きしました。その先生によると、日本では年々子どもの虐待が増加し、大変危惧される事態になっているとのことでした。
虐待にもいろいろあって、ける、つねる、なぐる、かむ、しばる、火を押しつける、水につけるなどの暴力。性的ないたづらをするもの。ごはんを食べさせない、衣服をかえない、医者にみせない、家に入れない、家に閉じ込める。また子どもの存在を無視したり、おびえさせたり、ば声をあびせたりすることなど、様々です。
注意したいのは、虐待をする親の約八割が、実は本人も親からそのような虐待を受けた経験があるということで、それが心と体に深い傷跡を残し、やがて無意識のうちに、自分の子どもにも同じようなことをしてしまうということです。
講演をお聞きしながら、幼稚園や保育園で子どもをお預かりする立場の者として、そのような家庭がないように努力しなければと深く思いました。
と同時に思ったのは、先ほどのご講師のお話を、自分自身に置き換えるとどうかということです。つまり今、私自身が子どもに虐待をしない。逆に、子どもの成長を喜び、子育てを有り難く感じることが出来るのは、決して自分の力だけではないということです。
虐待をしてしまう多くの親の原因が、自分も同じ事をされて育ったということは、言い換えれば、自分が虐待をしない。それどころか、子育てに喜びや感謝の思いを持ち、子どもとともに手を合わす生活ができるということは、私の力だけでなく、親をはじめ多くの方々からのお育ての賜ではないかということです。
自分自身をお育て頂いた多くの方々に深い感謝を思うと同時に、だからこそ、虐待のない社会にしなければ…と強い責任を感じることでした。
2006年1月15日 | 2006年01月15日【2】