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7月1日~繰り返し明けても暮れても…
長く降り続いた雨もようやく止みました。
さて先日、テレビで元水泳選手の松田丈志さんの現役時代をふり返る番組がありました。
松田さんといえば、宮崎県延岡市の出身で、ビニールハウスのプールで久世コーチの指導のもと、オリンピックで銅メダルを獲得したことで有名です。
番組の中で松田さんは、『現役時代、久世コーチは私に、「勝っておごらず 負けてくさらず」「自分に勝て そして他人に勝て」、この言葉をホントに念仏のように言っていました』と話をされていました。
その番組を見ながら、松田さんの栄光の影には、久世コーチの弛まない指導があったことをあらためて知ると共に、松田さんが「念仏のように」と言われたのは、繰り返し繰り返し、明けても暮れてもということで、あえてこのような表現をされたのは、若い松田さんの心の中に、念仏とは繰り返し繰り返しと言うものというイメージがあることを感じました。
そして、昔出会った宮崎のお医者様から、「私の病院にはお年寄りがたくさん来られますが、ロビーで待つそのお年寄り方を見ていると、ナマンダブ、ナマンダブと繰り返し称えておられます。意味もなく訳もなく称えるはずがない。どうしてでしょうか」と聞かれたことを思い出しました。
これがまさしく松田さんが言う「念仏のように」という姿でありましょう。
私はそのお医者様の問いに対して、「きっと人間が体のためにお薬を飲むのといっしょで、そのお年寄り方はお念仏という心のお薬を少しずつ少しずつ、繰り返し繰り返し、仏さまからいただいておられるのでしょう」とお答えしました。
そのことを本願寺のご門主様は、「私たちは阿弥陀如来のご本願を聞かせていただくことで、自分本位にしか生きられない無明の存在であることに気づかされ、できる限り身を慎み、言葉を慎んで、少しずつでも煩悩を克服する生き方へとつくり変えられていくのです」とご法話の中でお述べになっておられます。
7月1日~繰り返し明けても暮れても… | 2017年07月01日【288】
6月16日~後に残るものが大切にすべきは…
梅雨の季節ではありますが、なかなか雨が降りません。
さて先般、京都の大谷本廟の納骨・永代経法要でお話をさせていただくご縁をいただきました。
四日間執り行われるうちの二日間、四座でご法話をおつとめしましたが、一日中雨が降り続く天候にもかかわらずいずれも満堂の参拝者で、今は亡き方を偲ぶご遺族の強い思いを感じることでした。
以前読んだ本に、亡き方が残してくださるものが三つあると書いてありました。
一つは思い出です。ふり返れば懐かしく尊い思い出ばかりなりとの言葉がありますが、嬉しかったこと楽しかったこと、逆に辛かったこと悲しかったこと、親しき方との思い出はそれぞれにたくさんあります。
二つ目はご遺骨です。ご遺骨は、その方と縁ある方々がいのちのよすが・たよりとするもので、親しき方への思いを断つことが難しく、悩みや苦しみを抱えて生きる私が、ふっと心を寄せるところかもしれません。
三つ目が仏縁、仏さまである阿弥陀仏とのご縁です。
仏教を開かれたお釈迦さまはご自身が亡くなられるとき、それを悲しむお弟子方に、そう悲しむことではない。一人ひとり仏さまの教えを心のより所として生きていきなさいと述べられました。
親鸞さまも、ご自身が亡くなられるときに、この親鸞の身にこだわる必要はない。後に残るものは、本願念仏の教えをより所とすることを勧められました。
これは、亡き方との思い出も、ご遺骨も大切にすべきものではありますが、後に残るものが何よりも大切にすべきは、亡き方がそのいのちをかけて結んでくださった仏さまとのご縁、南無阿弥陀仏の教えをいただくことであります。
仏縁をいただく。仏さまに救われるとは生き方が変わることであります。
共々に、仏さまのみ教えを聞き、仏さまのお心をいただいて、こころ豊かな日暮らしをさせていただきましょう。
6月16日~後に残るものが大切にすべきは… | 2017年06月18日【287】
6月1日~肩の力ぬけて楽になる
新緑が輝き、爽やかな風が吹き抜けて、心地よい日々が続いています。
さて先般、お寺のこども園に勤務する若い先生が、「私は、こども園に勤めるようになって、お寺や仏教に対するイメージが変わりました」と、話しかけてきました。
お寺の園には、五十名ほどの職員が勤務していますが、その先生方は毎月一回、勉強会を行っており、住職や布教で来られた先生方のお話を聞く機会がよくあります。
そして、お話を重ねて聞いていく中で、今まで自分が思っていたお寺や仏教に対する印象が変わったというのです。
今までは、お葬式やご法事など、人が亡くなったときだけに関わるところという印象だったそうです。これは、私たちお寺を預かる僧侶が大いに反省しなければなりません。
こども園に勤めるようになり、お寺にご縁ができて、仏さまの教えを聞い後の印象は、仏教は自分が生きるために必要な教えであり、教えを聞いていくと肩の力が抜けて、生きていくのが楽になったとのことでした。
とても大切なことに気づいてくださったと思いますし、仏さまの教えを聞くということは素晴らしいことだと、あらためて感心させられました。
仏教は、真の自己に目覚めることをすすめる教えです。真の自己とは、本当の私の心と体の有り様のことで、それは常に自己中心的な心にとらわれて、確かな指標も持たないことにより、迷っていることに気づくこともなく、ひたすらさまよう姿です。
常に自分が正しいと思い込んでいるので、そんな自らを常に取り繕うために口も、心も、行動も、多くの鎧を身にまとい、いつも無理をしなければなりません。
その先生は、肩の力が抜けて生きていくのが楽になったと言われました。きっと、自分自身の真の姿に気づかされ、それを取り繕うための鎧をすべて捨てて、正直にまっすぐ生きることができるようになったからでありましょう。
お聴聞を重ねるとは有り難く、素晴らしいことです。
6月1日~肩の力ぬけて楽になる | 2017年06月02日【286】