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8月1日~仏縁を深めていくお堂
昔、中国の燕(えん)という国の昭王は、どんな酷暑の中でも涼しさを覚える「招涼の珠」という不思議な珠を持っていたそうです。私も一個欲しいと思う毎日です。
さて、覺照寺では、お盆を前にして納骨堂の『第三偲恩堂』が落成しました。
親しき人との今生でのお別れの後、ご遺骨をいのちの縁とする風習は、仏教を開かれたお釈迦さまの時代から続いています。
お釈迦さまは、今より二六〇〇年ほど前にインドのクシナガラという町で、齢八〇歳でお亡くなりになりました。
ご遺体は花やお香で飾られ、ヒラニヤヴァティという川の砂地に運び、白檀の木材を井桁型に組み、その上にご遺体は安置されました。そして、村人たちが足下から火をつけようとしましたが、一向に火がつかなかったそうです。
それから数日が経ったとき、お釈迦様の弟子の最長老であった摩訶迦葉が、お釈迦様の死の知らせを聞いて駆けつけました。
弟子の摩訶迦葉は、作法通りにお釈迦様の周りを三回回って、頭と顔を遺体の足につけて礼拝する「頭面礼足・ずめんらいそく」という作法をすると、不思議に火が燃えて荼毘に付すことができたと伝えられます。
きっとこの伝説は、お葬儀というものは、僧侶や、故人の肉親や知友が関わらないと成り立たないことを表しているのでしょう。
お釈迦様のご遺骨は、クシナガラの人々やお釈迦様の出身地のシャカ族など、お釈迦様を慕い敬うインド中の八つの部族に分けられて、それぞれにストゥーパというお墓が建てられ、それぞれの地域で多くの方々が、仏さまのみ教えを聞く心のより所となりました。
覺照寺の『偲恩堂』は、いのちの縁とするご遺骨を安置し、今は亡き方の恩を偲ぶお堂です。そして、お釈迦さまのお墓と同様、そのことを通して、縁ある一人ひとりが仏さまのみ教えを聞き、仏縁を深めていくお堂です。
8月1日~仏縁を深めていくお堂 | 2020年08月02日【361】
7月16日~京都は他力本願の町?
先日の豪雨では、熊本県を始め全国で災害が発生しました。被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。
さて今月初旬、お仕事で久しぶりに京都の西本願寺に出張しました。もちろんマスクを着用し、衛生面に細心の注意をしながらの出張でした。
京都駅からタクシーに乗りましたが、その中で「京都のタクシーも、このたびの新型コロナウイルスの感染拡大防止で、お仕事大変でしょう」と問いかけた私に、運転手さんから「はい、ホントに京都は他力本願の町やから、この新型コロナのお陰で商売ガタガタですわ」という答えが帰ってきました。
ちょうどタクシーが西本願寺に到着しようとする時でしたので、「西本願寺と言えば、その教えの要は他力本願」、この運転手さんは実にウィットの効いた返答をされたな…座布団一枚、と思ったのですが、それは少し違いました。
運転手さんは他力という言葉を観光客に例えて、京都の町は常々観光客に頼りながら成り立っている町という意味で、京都は他力本願の町と言われたようで、これは間違った使い方です。他力を他人の力に頼って事をなす意味で使うことは、本来的な意味からは間違っています。
他力とは、阿弥陀如来が一切のいのちあるものを平等に救わんとする本願の力のことで、他力本願とは阿弥陀如来の真実の願いのことです。
阿弥陀如来という仏さまは、その昔、法蔵菩薩の地位にある時に、いのちあるすべてのものを等しく救わんと誓われて、五劫というとてつもなく長い時をかけ修行をされて、その願いを成就されました。その願いは本願力という力となって、いつでも、どこでも、誰にでも今の今、はたらいてくださっています。それを他力本願というのです。
タクシーを降りる直前でしたので、運転手さんとはそのようなお話はできませんでしたが、またいつか本当の他力本願の意味を知っていただくご縁があればうれしく思います。
7月16日~京都は他力本願の町? | 2020年07月22日【360】
7月1日~いのちの保険の窓口へ
雨にぬれた木々の緑が一層濃く見えます。
新型コロナウイルス感染防止のため、行事や法要ができなかったしわ寄せが六月末に集中し、先月後半のテレホン法話の更新ができませんでした。いつもお聞きくださっている皆さまへお詫びいたします。
さて、先週の夜、幼稚園で職員会議の最中、豪雨に雷鳴がとどろき、まもなく大音響とともに落雷しました。
頭上より大変な衝撃がありましたのできっと近くへの落雷です。途端に幼稚園の火災報知器が鳴り、電話はつながらず、エアコンもコピー機も壊れて、職員皆てんてこ舞いで対応しました。
そして、私一人だけでなく、職員がいてくれたから本当によかったなと、後からつくづく思うことでした。
翌朝から、火災報知器や電話の会社、印刷機器やエアコンの会社への連絡です。
梅雨時期ですから当然、我が幼稚園だけでなく、いろんなところに落雷はあり、業者さんが多忙を極める中、駆けつけて修理をしてくださいました。
幸い建物全体が保険に入っていましたので、高額の修理代はすべて保険会社から保証され、あらためて保険の有り難さを感じることでしたが、同時に、自分のいのちの保険について考えさせられました。
ここで言う、いのちの保険とは生命保険のことではありません。
皆一人ひとり毎日、老いと病と死をかかえながら生きています。特に病と死には後先順番がありませんし、避けることも代わってもらうこともできません。この度の落雷のように、いついかなる時に、それがやってくるか分からない。それを無常と言います。
その時に、自分のいのち行く末がはっきり保証されていれば安心ですが、保証もなくどこに行くか分からない状態は、迷いと不安でありましょう。
あなたは、いのちの保険に加入されていますか。
いのちの保険はお金では買うことはできませんが、その保険の窓口はお寺にあり、どなたでも無料で加入できます。どうぞお気軽におこしください。
7月1日~いのちの保険の窓口へ | 2020年07月01日【359】