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11月1日~宗教は知らされる世界
秋も終わりに近づくにつれ虫たちの鳴き声も次第に小さくなっていきます。
さて先月、ご門徒のWさんご夫婦が突然訪ねてこられました。
イギリスに住んでおられるお孫さんが、この度中学校に進学されるにあたり、学校に信仰している宗教は何かを、届けなければならないとのことです。
Wさんは、「住職さん、私の家はずっと仏教ですから、孫の書類にはぜひ仏教徒と書いて書類を送ってください」とのご依頼でした。
現地の詳しいことは知りませんが、イギリスの公式宗教はキリスト教で、その他にも仏教やイスラーム、ヒンズー教なども認める他信仰国家ということですが、中学進学にあたって自分の宗教を、しかもお寺から直接届けなければならないという厳格さに感心することでした。
昨今、「私は無宗教です」という言葉を聞くことがありますが、それは、法律や道徳の基準からはみ出さずに生きればよい、という考え方でありましょう。
しかし、日常を省みると果たしていかがでしょうか。
法律を破って警察に捕まれば、あの人は悪い人と言われるでしょうが、捕まらなければ善い人かというと、そうでもありません。
テレビで、犯罪を犯した人について、周囲の人たちが、「あの人に限ってそんなことをする人じゃない」「いつも地域や他人のために一生懸命な人で、何かの間違いですよ」と話すのは、きっとその犯人は普段は善い人だったのでしょう。
人間という存在は、善いことと知りながらも善いことができず、悪いことと知りながらも、縁次第では犯さずにはおれない存在です。
宗教は、人間の行為よりも、人間の存在そのものを深く見つめていく生き方を知らしてくれるものです。
そのことを、ノーベル物理学賞を受賞された湯川秀樹先生は、「科学は知る世界であり、宗教は知らされる世界である」とおっしゃいました。
宗教は、一度きりのかけがえのない人生を、真実に生きるためのよりどころであります。
11月1日~宗教は知らされる世界 | 2022年10月29日【415】
10月16日~私の罪をとがめることなく
幼稚園・子ども園の運動会の準備に追われていましたら、つい、このテレホン法話を忘れていました。申し訳ありません。
さて、宗教にかかわる言葉で、「汝の罪は深い」とか、「汝の罪を許す」という言葉を聞くことがありますが、このことについて、深川倫雄先生が述べられています。
西本願寺のパンフレットに掲載されていた一部をご紹介します。
「『無量寿経』の前半は「弥陀分」というて、お釈迦さまが、阿弥陀さまとはこういう仏さまなんだとお説きになっているけれども、その中には一カ所も我々の生き方が告げていない。また一言も私どもの罪が深いとは説いていない。有り難いね、これは。罪深い者に『汝の罪は深い』と告げるひまはないんだ。
川端を通りかかったら、子どもが土手で遊んでいたらしゅうて、一人で溺れておる。そこへ通りかかって『こんなとこで相撲とるから溺れるんじゃないか』と、罪を告げるひまはないではないか。溺れておるなら、何であろうとまず先に救うてやらねばならん。
それがお救いなんだから『我何をなすべきか』ではなくて、『仏何をなしたもうか』を聴聞するんですよ」とおっしゃっています(『如来をきく』彰順会篇・深究社)。
阿弥陀さまは、おまえは罪が深いとか、おまえのここが悪いから直せとか、おっしゃる仏さまではありません。
阿弥陀さまは、私たち一人ひとりの苦悩を知りぬいて、一時も休むことなく案じ通し心配し通しの仏さまであり、悩み苦しみ多き私たちのために、今立ちあがっていかねば間に合わぬという親心を現した姿が、あのお立ちになった姿の阿弥陀如来であり、私たちの罪をとがめることなどなく、私たちそのままを救い取ってくださる仏さまであります。
まことにありがたい仏さまであります。
10月16日~私の罪をとがめることなく | 2022年10月18日【414】
10月1日~仏さまを思い、ご門徒を思い…
先月十八日に到来した台風十四号は過去最強クラスで、台風の特別警報が沖縄以外で発令されたのは初めてという強い台風でした。
被害に遭われた皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。
お寺は、本堂や書院など建物には被害はありませんでしたが、お寺に登る坂道の桜の大きな枝が折れました。またお寺の裏山から数本の竹が倒れて道路を塞ぎ、自動車が通行不可能になり、さらに境内や納骨堂周辺が一面葉っぱで埋め尽くされました。
翌日の早朝、荒れ果てた光景を見て途方に暮れていると、建設会社のWさんが自ら駆けつけてくださり、まだ雨の降る中、ずぶ濡れになりながら納骨堂周辺の落ち葉を片付けてくださいました。
植木屋さんのWさんも駆けつけてくださり、機械で倒れた竹や桜の木を切って、その日の午前中のうちに車が通れるようになりました。
翌々日の朝は、こども園の先生方が境内一面に散れた大量の葉っぱを一日かけて清掃してくださいました。
皆ボランティアでまことに有り難かったのですが、何よりも有り難かったのは、「仏さまがいらっしゃるお寺は少しでも早くきれいにしなければ」「ご門徒がお参りに来られるお寺だから、早く掃除をしなければ」という、仏さまを思い、参拝されるご門徒を思う皆さんの心です。
仏教でお金や物は持たなくてもできる施しの中に、体をもって行う施しを「身施」と言いますが、仏さまのご恩を思い、参拝するご門徒を思い、皆汗だくになりながら、多くの方々にこの「身施」をいただきました。
ちなみに、その翌日は子ども園の職員も、住職のわたしも全員腰痛になり、それほど大変な作業だったのですが、互いに笑い合い、労をねぎらって、心地よい痛みとなりました。
10月1日~仏さまを思い、ご門徒を思い… | 2022年10月01日【413】