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8月15日~幽霊が見えた、お化けが出た!~
お盆が終わりました。皆さんもそれぞれにお墓参り、お寺参りをされたことでしょう。
覚照寺では十三日に「初盆合同法要」をお勤めし、十四日、十五日と初盆のお宅に参り、昨年から今年にかけてお浄土に往生された方々をともどもに偲びました。
さて、そのようなお盆の風情とは裏腹に、この季節、テレビで毎年のように放送されるのが幽霊の番組です。皆さんは、幽霊とお化けの違いをご存じでしょうか。
それは、幽霊は人に憑いて出て、お化けは場所に出る、ということだそうです。たとえば、山下さんという人に憑いた幽霊は山下さんだけに見えます。山下さんが福岡に行けば福岡に、東京に行けば東京に、山下さんの幽霊は憑いていきます。
そして、山下さんに憑いた幽霊は、友だちの小川さんには見えません。そうです。山下さんの幽霊は、山下さんの怯えた心が作りだしたものです。
お化けは場所に出るということは、うっそうとした森や湿気の多いお墓、柳の木の下や古井戸、また、今は使用していないトンネルといった気味悪い雰囲気を持った場所がお化けを作ります。ですから、たった一人だけでなく、そこには多くの目撃者が出るのです。
つまり、人に憑いて出る幽霊も、場所に出るお化けも、人間の心が作り出す存在なのです。逆に、心の強い人の前には幽霊やお化けは出現しません。
そのことを、真言宗の開祖・弘法大師空海は、「人々の心清らかなるときは、仏を見ることができ、もし心が煩悩に惑わされて清らかでないときは、仏を見ることができない」とおっしゃっています。
なるほどと思います。詐欺に引っかかる人は、たいてい欲深いそうです。欲のない人は詐欺にはあまりあわないと聞きます。「あいつは鬼のようなやつだ」と、激しく非難する人の方が、鬼の心になっているのかもしれません。
いつも、明るくすこやかな心で、目には仏さまのお姿が見えるような日暮らしをしたいものです。それには、仏法を重ねて重ねて聞くことでしょう。
8月15日~幽霊が見えた、お化けが出た!~ | 2006年08月16日【30】
8月1日
今年もお盆が近づいてきました。
さて、お盆は、正式には盂蘭盆といい、悩み苦しみ多き人間が、仏さまのみ教えによって救われることを意味します。
先日、大勢の小学生に、そのお盆にちなんで、芥川龍之介の有名な「くもの糸」のお話をしました。ところが、その小学生の大半が「くもの糸」を知らないのです。
ある日、お釈迦さまが、極楽浄土の美しい池のほとりを歩いておられたとき、ふと、水面から地獄の世界をご覧になられました。地獄の血の池では、生前、さまざまな罪を犯した者たちが、あえぎ苦しみもがいている姿が見えました。
その中に、カンダタという者がいました。カンダタは、生前人を殺したり、放火をしたりした大罪人でしたが、お釈迦さまがカンダタの生前をふり返ると、たった一つだけ良いことをしていました。
それは、カンダタが森を歩いていたとき、一匹のくもを見つけ、思わず踏みつぶそうとしましたが、「いや、この小さなくもにもいのちがある。そのいのちをむやみにとるとは、いくら何でもかわいそうだ」と、逃がしてやったのです。
そのことをちゃんと見ておられたお釈迦さまは、カンダタを極楽へ救おうと思い、池のほとりに巣を作っていた黄金色のくもの糸を一本、血の池に垂らしたのです。
カンダタは、「しめた」と、くもの糸にしがみつき、すぐさま極楽へと登り始めますが、下の方を見ると、今まで共に血の池にいた罪人たちが次から次に登ってきて、くもの糸が今にも切れそうです。
カンダタは、「おい、罪人ども、この糸はおれさまのものだ。お前たち誰に許しを得て登ってきた。すぐに降りろ」と叫びました。と同時に糸は切れて、カンダタは皆とともに、また血の池に堕ちてしまったという話です。
人間のエゴイズムの悲しさを、お釈迦さまの眼をとおして万人に語りかけたすばらしい物語ですが、そのお話を知る子どもたちが、今や世の中から消えつつあります。と同時に、「自分さえよければいい」という利己主義の人間が増え、自分さえよければ人はどうなってもいいという悲しい時代になりました。子や孫たちへ、語り継ぐことの大切さが身にしみます。
8月1日 | 2006年07月31日【29】
7月15日
今年はなかなか梅雨が明けない上に、毎日、とても暑い日が続いています。
さて、私事で恐縮ですが、数年前からご門徒のOさんの薦めで、観葉植物の「おもと」を栽培しています。緑色の大きな葉に、白い斑点や縞模様をつける様を楽しむもので、中には大変高価なものもあります。
私のものには、それほどのはありませんが、しかし、今年、その鉢に大変なことが起きてしまいました。たくさんある鉢の中で、私が一番気に入っていた、しかも、今年もきっといい文様を見せてくれるだろうと期待していた二つの鉢から、どうしたことか新しい芽が出てこないのです。
こんなことは初めてで、あれこれ考えてみると、私は大変な失敗をしたことに気が付きました。
それは、「おもと」は、夏に入る前に花を咲かせるのですが、完全に咲く前に花は摘んでしまいます。葉の文様を楽しむ「おもと」ですから、花を咲かせる栄養を葉に行かせるためです。しかし私は、大切な二つの鉢の花を摘むときに、その花の横からわずかに出た新しい芽の先を、傷つけてしまったのでした。傷つけられた芽は決してそれ以上成長することはありません。
ふり返るとそこには、今年も早くいい文様の葉を出させようとする私の欲がありました。仕事が忙しい中で、花や葉の状態をよく見ることなく手がけてしまった私の粗雑さと焦りがありました。たくさんの鉢の中からこの二つだけはという、偏ったひいき目もありました。数年栽培しているから、これくらい手をかければ充分だろうという、馴れとおごりがありました。
その結果、大切な芽を摘んでしまったのです。摘んでしまった芽は二度と出ることはありません。
「おもと」だけではありません。子育て、お仕事、人間関係などいろいろありますが、「大切な芽を摘む」ことはないでしょうか。「大切な芽を摘む」その裏には、早く思い通りにしたいという欲と、忙しさのなかで生じる粗雑さや焦りと、偏ったものの見方と、馴れとおごりがあることを、「おもと」はその身をもって教えてくれました。心したいものです。
7月15日 | 2006年07月16日【28】