3月1日~人生を締めくくる最後に…
次第に暖かくなり始め、木々が新芽を出す時期を「木の芽時」といいます。
さて先日、関東で僧侶を務める友人と話をしましたら、首都圏では一人住まいの方や、形だけの親族がお亡くなりになった時、ご遺体は病院から葬儀社に運ばれ、しばらく保管されたあとに直接火葬場に運ばれて荼毘に付される、いわゆる「直葬」といわれる形が増えつつあると言っていました。
火葬をされているのでお葬式の最低条件は備わっているのですが、この火葬はその人を弔う儀式としてではなく、ご遺体を処理したのにすぎません。
このようなことが増えつつあるのには、不況や孤独、人間関係の希薄化、儀礼の省略化、少子高齢化など、現代社会が抱える様々な問題が背景にあるようです。
ひとりの人がこの世に生を受けた時、よほど特別な事情がない限り、両親をはじめ周囲の人々はその誕生を喜んだことでありましょう。そして親はその子を一生懸命育てるでしょう。
幼稚園やこども園に通い、小学校、中学校、高校と進みますが、その間多くの先生や友だち、地域の人々など、様々な人と関わり合いながら成長していきます。そして社会へ巣立ち、お仕事を通して多くの人と関わりを持ち、支え支えられながら生活をします。
その多くのご縁があった人生を締めくくる最後に、誰からも弔われることない「いのち」について、考えさせられます。
友人は、「最低限の質素な形でもいい。せめて一声二声のお念仏、お経の中でお見送りをしたいけれども、求められなければそれもできない」と語ります。
人ひとりがこの世に生を受けて、数十年の人生を送るということは大変なことですし、そこには決して無縁ではない、多くのご縁があったはずです。そして、その人生やご縁に思いをめぐらせて、感謝の思いで葬儀や法事を務めるのは人間だけの行為です。
そのお一人おひとりの人生の最後を大切にお勤めしたい。僧侶としてあらためてそう思いました。
2019年03月03日【330】